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芥川龍之介から見る、田端文士芸術家村の姿

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東京都北区

東京・北区は、文化・芸術の息づくまち。
なかでも、田端は明治22年に上野に東京美術学校が開校されたことをきっかけに、芸術家たちが多く移り住む「芸術家村」となり、その後、芥川龍之介・室生犀星らが転入したことで、「文士村」としての一面も持つようになりました。
昨年6月には、田端文士芸術家村の中心人物の一人である芥川龍之介の旧居跡に、「(仮称)芥川龍之介記念館」が開設されることが決まり、盛り上がりを見せています。
そんな田端文士芸術家村の姿を、「芥川龍之介」をテーマにひも解いていきます。

○田端文士村記念館にて5月6日(休)まで開催中
恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~
恋心を綴った芥川龍之介の書簡2通を初公開!詳しくは田端文士村記念館ホームページをご覧ください。

(1)田端文士村記念館
完全再現!模型から見る芥川家の暮らし
田端で活躍した文士・芸術家の功績を展示や催しを通して紹介しています。なかでも、龍之介が過ごした田端の家の復元模型は必見。数々の名作を生み出した書斎に加え、龍之介の家族も登場するこの模型は芥川家の日常を忠実に再現。解説映像・解説シートとともに龍之介の生活を知ることができます。
場所:田端6-1-2
費用等:無料

問合せ:田端文士村記念館
【電話】5685-5171

(2)芥川龍之介
田端文士芸術家村の中心人物
大正3(1914)年、一家で田端に転入。その才能と世話好きな性格は多くの人々をひきつけ、田端文士芸術家村の中心人物として活躍。「羅生門」「鼻」など数多くの作品を世に残しました。
また、昨年、区が芥川龍之介旧居跡の土地の一部を取得。2023年に、芥川龍之介の名を冠し、単独で業績を顕彰する施設として日本初となる、「(仮称)芥川龍之介記念館」の開設が予定されています。
場所:田端1-20
※標示板あり。現在は一般宅

(3)不動坂
龍之介を悩ませた急な坂道
JR田端駅南口の駅前にある坂。あまりの急こう配に、当時下駄で往来していた龍之介が「雨のふるときは足駄(※下駄のこと)で降りるのは大分難渋だそこで雨の降るときには一寸(ちょっと)学校がやすみたくなる」と友人あての手紙に記しているほど。
場所:田端1-23地先

(4)楽天堂医院跡
龍之介のかかりつけ医
龍之介の主治医・下島勲の医院。下島は、医院を開業後、多くの文士芸術家たちと交流し、「道閑会」の主要メンバーでもありました。医業の傍ら書家・俳人・随筆家としても活動し、龍之介の書斎「澄江堂」の扁額も手掛けています。主治医として龍之介の最期も看取りました。
場所:田端1-15
※現在は一般宅

(5)天然自笑軒跡
龍之介が結婚披露宴を行った料亭
明治44(1911)年創業の料亭。多くの文士芸術家や政財界の人々に愛され、龍之介も参加した「道閑会」という田端に住む文化人の親睦会の会場としても利用されました。大正7(1918)年には、龍之介の結婚披露宴も行われています。店主・宮崎直次郎は龍之介の養父の知人で、芥川家に田端の土地を紹介した人物でもあります。
場所:田端1-17
※現在は一般宅

(6)萩原朔太郎
龍之介が寝巻のまま駆け込んだ!?
大正14(1925)年、田端に居住。口語自由詩の実質的な完成を成し遂げ、日本近代詩に新境地を開いた詩人です。朔太郎の書いた「郷土望景詩」を寝床で読んでいた龍之介は感動のあまり、朔太郎の部屋に寝巻のまま駆け込んだそうです。
場所:田端2-4
※現在は一般宅

(7)小杉放庵
多彩な才能を発揮した「器用人」
明治33(1900)年、田端に寄宿し、のちに転居。洋画・日本画の双方で活躍しました。田端で美術家たちの社交場「ポプラ倶楽部」の創設にも携わった放庵は、画家としてだけでなく歌人としての顔も持ち、才能あふれる人物で、親交のあった龍之介が「呆れはてたる器用人」と称したほど。
場所:田端3-16(転居先)
※標示板あり。現在は一般宅

(8)東覚寺
いにしえから田端を見守る仁王像
病のある場所と同じ部位に赤紙を貼って祈願すると病気が治るといわれている一対の仁王像(俗称赤紙仁王)があるお寺。小杉放庵が「酔った勢いで仁王像を倒してしまった」という逸話があります。
場所:田端2-7-3

問合せ:東覚寺
【電話】3821-1031

(9)堀辰雄
「タッチャンコ」の愛称で可愛がられました
大正13~14(1924~1925)年頃、田端で下宿。龍之介と室生犀星を生涯の師とし、龍之介との交流を描いた「聖家族」で文壇に認められました。龍之介は、「タッチャンコ」と呼んで可愛がった辰雄について、自身との共通点を「東京人、坊ちゃん、詩人、本好き」と書いています。
場所:田端3-14(最初の下宿先「大盛館」)
※現在は一般宅

(10)室生犀星
「自然児」犀星と「文明紳士」龍之介
大正5(1916)年、田端に転入。雑誌『感情』や詩集を刊行し、田端中学校の校歌の作詞も行いました。龍之介とはかけがえのない友人同士でした。萩原朔太郎は、二人の友情を、性格などが正反対でありながらも互いを認め合った「君子の交わり」と評しています。
場所:田端5-5(田端での3回目、6回目の転居先)
※標示板あり。現在は一般宅

(11)童橋公園
室生犀星の庭の「庭石」がある珍しい公園
犀星の庭造りは有名で、庭に関する随筆や評論も数多く発表されています。童橋公園には、とある縁からそんな犀星の庭にあった「庭石」が移築されています。
場所:田端5-1-5

問合せ:
・「庭石」について 田端文士村記念館【電話】5685-5171
・公園について 道路公園課【電話】3908-9275

▽柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)
田端出身の現役染色家
大正11(1922)年、洋画家の柚木久太の次男として田端に誕生。芹沢銈介に染色の技法を学び、日本における型染の第一人者として96歳を迎えた今も精力的に活動しています。また、平成31年4月に開設する田端中学校の新校舎(田端4-17-1)の室名表示などの意匠を手掛け、同中学校のために型染「文化の田端」「鉄道と文学の田端」などの制作も行いました。

掲載情報は、平成31年3月現在の情報です。休館(休園)日等はお問い合わせください。

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